日本軍はどんな場所を慰安所として使用したのか。
日本軍の慰安所は1931年に上海ではじめて設置され、敗戦まで続いた。日本軍が慰安所を設置した理由として、強かん防止、性病予防、治安維持、士気高揚を挙げることができる。慰安所は日本軍が侵攻した地域すべてに設置され、戦地だけではなく日本国内の炭鉱や工場など戦争遂行のための労働力が集まる場所にも設置されていたことが確認されている。
被害者は5万~20万人と言われているが、資料などの不足により正確な数は分かっていない。被害者の出身地域は、朝鮮、台湾、中国、フィリピン、インドネシア、東ティモール、オランダ、日本など広範囲に渡る。軍人の記録などからビルマ、マレー、インド、ベトナムの女性も慰安所にいたことが分かっているが、被害の全貌は未だ明らかにはなっていない。

東寧慰安所跡 今は新しい建物が立っているが、キム・スノク被害者は自分がいた東寧市内の慰安所の場所を正確に覚えていた。被害者は北朝鮮出身であるが、2005年度に韓国に帰国し、「ナヌムの家」で過ごし、2018年に亡くなられた。
石門子慰安所跡 中国黒龍江省東寧には日本軍3個師団と地下要塞が所々にあった。当然、軍部隊がある所なら慰安所が設置されており、イ・スダン被害者、キム・スノク被害者は同じ時期に石門子地域の慰安所にいた。
春花慰安所跡 中国吉林省春花は大通りを挟んで、一方には軍部隊、反対側には慰安所のような慰楽施設があった。朝鮮の女性がいた慰安所が2ヶ所あり、そこで3ヶ月のあいだ性奴隷とされたパク・ソウン被害者は中国に置き去りにされ、生涯を慰安所跡から徒歩5分の場所に暮らしていた。
利濟巷慰安所 1937年中国南京での日中戦争を皮切りに、日本軍は現地の女性たちを無差別に強姦した。これによって兵士の性病が発生するや、日本軍は戦力喪失を防止するために南京に大規模な40余りの慰安所を作った。利濟巷慰安所の4つの建物には、常時200余名の朝鮮人女性がいた。白黒写真の中の、妊娠したパク・ヨンシム(北朝鮮出身)被害者はここにいた。 
海乃家慰安所中国上海‘海乃家’慰安所は日本の将校出身が運営していた所だ。当時、紡績工場を強制的に奪って慰安所を作り、日本海軍から必要な食べ物、酒、コンドーム、などが供給されていた。白黒写真はそこにあった朝鮮人女性と日本の将校が一緒にハイキングに出かけて撮ったものである。 
荔浦县慰安所 中国広西省荔浦县の慰安所は村の地主の家を奪い、部隊の施設として使用した。ウェイシャオラン被害者がここの1階の隅の部屋で性奴隷とされ、子どもを妊娠したことも知らないまま逃亡した。
澄迈县慰安所 中国海南島は太平洋沿岸国家を侵略するための重要な拠点だった。当然日本軍が島の所々に駐屯し、澄迈县のような小さな村にも慰安所が設置され、今も残っている。ここには中国女性たちが強制動員された。
故朴来順の墓 中国海南島保亭黎族苗族自治县には性奴隷とされ、故国に帰れなかった朴来順被害者の墓がある。若いときに道路工事のような所で働いていたので、そちらで毎年墓を管理している。山野には強制徴用者の埋められた千人坑がある。 
インマヌエル病院フィリピンのRoxas市のインマヌエル病院を日本文は守備隊と捕虜収容所、慰安所として使用した。男女別に区分し収容したが、女性は性奴隷をされた。市内には慰安所として使用されたスペイン式の廃れた建物が残っている。 
フィリピンの日本の大使館フィリピンのマニラでは毎年、2回日本、アメリカ大使館の前で被害者の正義と反戦のための集会を行なっている。最近の日本大使館から3km離れたマニラのロハス大通りに建てられた慰安婦像が日本の圧迫によって強制撤去された。 
アラヤット中央学校 フィリピンのアラヤット地域では日本軍が中央学校の建物を奪って部隊として使用し、近隣の女性たちを拉致し性暴力を日常としていた。依然としてここでも被害を受けた女性たちが生存している。
‘Keep Rest’慰安所インドネシアスカブミには‘Keep Rest’という名の慰安所の建物が残っている。当時、現地の女性が3, 40余名いる大きな規模だった。近くには同じ規模の慰安所があったそうだ。写真の中のウミクルスム被害者は12歳の時に2人の日本軍人に性暴力を受けた。 
パレパレ慰安所 インドネシアのスラウェシパレパレ、この家は当時日本軍が会議をし、同時に遊楽空間だった。すぐ隣にはチンタ被害者が性奴隷として過ごしていた慰安所跡がある。
慰安所跡 暑い地方であるインドネシアの辺境では慰安所が竹で作られ、竹を意味する ‘バラック’を慰安所の通称とした。大部分の慰安所の建物は残っていないが、村の人々はその場所を覚えている。
スラウェシの被害者インドネシアの南スラウェシの被害女性たち。1942年日本軍が侵略をしながら幼い女性たちを無理矢理に動員し、性奴隷とした。インドネシアにはまだ数千名の生存者がいると言われている。全数調査がなされておらず、残っている記録はほとんどない。時間、通訳、費用などの問題によって写真の中の生存者のうち、半分にしか会えていない。
ラウリンダ刺青ラウリンダ被害者の上腕には日本軍が彫った刺青が鮮明に残っている。日本軍が呼んでいた日本の名前‘鶴多子(タツコ)’と‘JAPON…’の文字がある。このような傷によって過去の記憶を消したくても消すことができずにいる。
フランシスカー刺青フランシスカー被害者は慰安所で日本軍がまず刺青を彫ろうと言うので、どうしようもなく刺青を彫った。軍部隊の標識のように見える多様な模様が腕、脚など身体中に彫られている。
壊れた教会 東ティモールのSameにある教会は日本軍の爆撃によって屋根がなくなった。平日だということで人命被害は少なかったという。周囲の村には3名の日本軍性奴隷被害者の女性が生存している。