10月 2020のアーカイブ
イタン ITang
イタン ITang
イタン ITang
インドネシアのスラウェシに生まれる、1945年15歳(推定)の3ヶ月間動員
インドネシア人や、
ほかの場所から来た女性が
全部で四十人ほどいました。
一部屋に一人ずつ入っていました。
買い物をしに行った市場に突然日本軍が現れて、マリンポンに連行されました。そこに多くの女性が連行されてきました。
巨大なバラック(竹で造った家。慰安所を指すこともある)には、インドネシア人や、ほかの場所から来た女性が全部で四十人ほどいました。一部屋に一人ずつ入っていました。
一日に五人くらいの軍人としなければなりませんでした。コンドームはなく、病気の治療も受けられませんでした。日本軍が管理を行っており、長い刀を差した軍人も来ました。三カ月後、日本軍が去って解放されました。そこから家までは三十キロほどありましたが、歩いて帰りました。両親に「どこにいたのか」と聞かれたので、
「日本軍に捕まって連行され、 怖い思いをした」と話しました。母は「あなたのせいではない。
無理やり連れて行かれたのだから仕方がない」と言いました。
同郷の夫と結婚しましたが、彼はこのことを知っています。軍人との行為のせいで体中が痛みます。
同郷の夫と結婚しましたが、彼はこのことを知っています。軍人との行為のせいで体中が痛みます。
* 2015年に自宅前の道路で事故に遭い歩くことができない。家の中では床を這って移動している。交通事故のあと手術をしたが完治しなかった。小用を足すときもチューブを使っている。何人かいる子どもの家を転々としながら暮らしているが、今の家には部屋がなく、キッチンの食器棚の裏にマットを敷き、天蓋のように布を張って作った空間で過ごしている。
ファウスト Fausta Gomez
ファウスト Fausta Gomez
ファウスト
Fausta Gomez
フィリピンのアラヤットに生まれる、1943年12年で一中動員
私が強姦されたことを
知っていた村の人々には嫌われていました。
結婚もよその男性としました。
父は早くに亡くなっていました。母の手伝いでバナナの葉を市場に売るためいつものように仕事をしていると、午後になって日本軍が現れて無理やりトラックに乗せられました。トラックには三人の女性と多くの軍人がいました。
私は部隊として使われていたArayat central schoolに連行され、女性たちは別々の部屋に閉じ込められました。他の女性の姿を見ることはできませんでしたが、泣き声は聞こえました。
夜になって二人の軍人が入ってきて、私を殴りながら服を脱がせました。私は泣きながら「やめてくれ」といって抵抗しました。苦痛でした。
その翌日を除いて、私を強姦した軍人は夜ごとやってきました。虐待はされませんでした。部隊にいた一か月の間、「家に帰してほしい」とその軍人に抗議を続けました。彼は私を可哀想に思ったのか「家に行け」と言いました。
帰ってみると家は焼けてなくなっており、母は隣の家で熱を出して臥せっていました。私は数か月間ショックから抜け出せませんでした。私が強姦されたことを知っていた村の人々には嫌われていました。結婚もよその男性としました。
私をこんな風にした日本の軍人には、残忍な行いを反省してほしいです。私が死ぬ前に正義が実現することを願います。そして公式の補償が行われることを望んでいます
* 話の途中で年老いた男性がこちらを見守っているのが見えたので、あとで誰かと聞くと夫だというので驚いた。家族が痛みを分かちあい、傷を癒していることに感動した。
ウェイシャオラン 韦绍兰
ウェイシャオラン 韦绍兰
ウェイシャオラン
韦绍兰
中国の広西に生まれる、1944年24歳で3ヶ月間動員
私のお腹の中には日本の兵士の子どもがいました。
義母は「汚れた子だ」と言って
生まれた子を殺すつもりでしたが、
男の子だとわかると、
日本軍が村にやってきたときはすでに結婚しており、一歳になる娘もいました。日本軍に見つかって、おんぶ紐の娘と一緒に捕えられました。そして他の四人の女性と一緒に無理やり軍のトラックに乗せられたのですが、
そのうちの二人は抵抗して銃で撃たれて死にました。私は娘のことが心配で、そのままトラックに乗っているしかありませんでした。
最初に強姦されたときのことが忘れられません。日本軍はおぶっていた子どもを床に降ろし、行為の間に子どもが泣いてもお構いなしでした。
子どもに手を出されるかもしれない、殺されるかもしれないと思うと拒否することはできず、されるがままになっていました。一日に四、五人の軍人がやってきました。
三カ月ほど経った頃、眠っている子どもをおぶって夜中に逃げ出しました。家に帰った私に父は、「お前のせいではないのだから自分を恨んではいけない」と言いました。
娘は腹痛が続いていたのですが、お金がなかったので病院に行くことができず、三か月後に亡くなりました。そのとき私のお腹の中には日本の兵士の子どもがいました。
義母は「汚れた子だ」と言って生まれた子を殺すつもりでしたが、男の子だとわかると、「大きくなれば仕事ができる」と言って命を助けてくれました。
* 息子の羅善学(ルオ・シャンシュエ)さんが日本軍に似ているというひどい理由で、村の人々は韋さんら母子を冷遇している。学校もまともに通えず、韋さんら母子は村で雑役をしながら暮らしている。今も彼らの親戚があからさまに韋さんら母子を邪険にしているのがわかる。
李壽段 LEE Su-dan
李壽段 LEE Su-dan
李壽段
LEE Su-dan
朝鮮平安南道に生まれる、1940年19歳で5年間動員、中国の東寧に残された짐
私は満州へ行って
雑役をするものだとばかり思っていました。
三年契約で前金四百八十円をもらいました。
そのお金は継母に渡してきました。
私を連行したのは日本軍の手先でした。軍服を着て刀を差していました。彼らはお金と服をくれました。私は満州へ行って雑役をするものだとばかり思っていました。三年契約で前金四百八十円をもらいました。そのお金は継母に渡してきました。
満州に着いてみると、私の働き先は工場ではなく、遊郭のようなところでした。主人は日本人夫婦で、私を「ヒドミ(原文ママ)」と呼びました。
一日に八人から十人の軍人が来ました。昼は一般の軍人が、夜は将校が来て寝ていきました。軍人がお金を払うと、入場票と一緒にコンドームが渡されました。
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部隊では軍医が性病の検査を行いました。私は大病(性病)を患ってしまい、東寧の病院に行って十日間治療を受けました。退院して戻ると、私の部屋の前に「立入禁止」という表示がありました。
治療費を自分で負担しなければならなかっただけでなく、働けなかった分のお金も借金になって残りました。
戦争が終わって解放されましたが、故郷に対して情を抱くことができない気がして帰りませんでした。このあたりで中国人の夫と出会って一緒に暮らしましたが、
暴力がひどく、村の人々まで「離婚しろ」というくらいでした。とても一緒に暮らしていくことができず、結局一人で老人ホームに入りました。
* 自分の子どもを産めなかったおばあさんは、年を重ねるにつれて子どもに対する執着が大きくなっていった。統合失調症になってからは、子どもの写真を部屋に貼っている。老人ホームの院長がプレゼントした人形を赤ちゃんだと思って話しかけ、眠るときもその人形を抱いていた。
マルチナ Martina Madeira Hoar
マルチナ Martina Madeira Hoar
マルチナ
Martina Madeira Hoar
東ティモールカサバウアークに生まれる、1942年12歳で3年間動員
当時私は十二歳くらいだったのですが、
連行された場所には幼い少女が大勢いました。
私は軍人の「ワイフ」でした。
毎日何人もの軍人が来ました。
両親は農業を営んでいました。家に一人でいるときに日本軍が来ました。私は怖くて逃げたのですが、その間に両親が帰宅し、日本軍に捕まってしまいました。日本軍は「娘を連れて行く」と言って両親を脅迫し、そのまま私を連行しました。
当時私は十二歳くらいだったのですが、連行された場所には幼い少女が大勢いました。私は軍人の「ワイフ」でした。毎日何人もの軍人が来ました。
殴られはしませんでした。そうして一年が過ぎたころ、「家に帰れ」と言われました。
家に帰ってからも時々軍人がやってきて、「娘を差し出せ」と言いました。父と母が拒否すると、軍人は二人をめちゃくちゃに殴り、私を連行しました。両親が殴られるので行くしかありませんでした。
医師はいませんでした。体調を崩しても治療は受けられず、薬ももらえませんでした。食事が与えられるだけでした。二年後、戦争が終わって解放されました。
姉も日本軍に連行されたそうです。いつ連行されたのかはわかりませんが、あとになってそのことを聞きました。父親が違うので別々の場所に住んでいたのですが、一緒に暮らすようになって姉からそのことを聞きました。結婚しましたが子どもはいません。
当時のことを考えただけで頭が痛くなります。腰痛があり、咳もよくでます。古い家を直したいと思っています。
* 1975年に姉と会い、親戚の家で一緒に暮らすようになった。おばあさんは家族の前で過去のことを話したがらない。おばあさんは日本軍にされたことを「ワイフ」というあやふやな言葉で表現した。見ず知らずの外国人に自分の痛みを明かすのはそれほど辛いことなのだろう。
ティザー Dg Tija
ティザー Dg Tija
ティザー Dg Tija
インドネシアのスラウェシに生まれる、1945年16歳(推定)に5ヶ月間動員
殺されるかもしれないと思ったからです。
ここゴワの文化では、
女性がこのような被害にあった場合、
死ななければなりませんでした。
父は亡くなるまでこのことを知りませんでした。
中学三年の頃、日本軍がウジュンパンダンに上陸しました。最初に父が捕まり、私もその十日後、父がいない間に四人の軍人に捕まりました。
そこには他の女性も十人ほどいました。普段は一日に三人の軍人に強姦されました。二人増えることもありました。
行為をされたあとはとても平常心ではいられませんでした。泣きながら「家に帰りたい」と言っても帰ることはできませんでした。泣いていても強姦されました。反抗すると縄で手首を木に縛られました。
そこにいる間、性器から血が出ることがありましたが、何の治療も受けられず、薬もありませんでした。性行為のあと、日本軍に知らない薬を渡されました。避妊のための薬だと思いました。
そこで亡くなった女性もいました。ある人は病気になって家に帰った一週間後に亡くなったと聞きました。その知らせを聞いて力が抜けてしまいました。
五カ月後、日本軍は去っていきました。家に帰っても父にはこのことを話しませんでした。
もし父がこのことを知れば、殺されるかもしれないと思ったからです。ここゴワの文化では、女性がこのような被害にあった場合、死ななければなりませんでした。父は亡くなるまでこのことを知りませんでした。
息が苦しく、立ったり座ったりすると体のあちこちが痛みます。痛みがひどいときは病院に行って診察を受け、薬を飲むと良くなります。ずっと薬を飲んでいたいです。
* 家が老朽化して傾いている。子どもが何人かいて、五番目の娘のサラさんと一緒に暮らしている。
ルシア Lucia Luriz
ルシア Lucia Luriz
ルシア Lucia Luriz
フィリピンのアラヤットに生まれる、1942年12歳で2ヶ月間動員
時々テレビから日本語が聞こえると
悪夢に陥ります。
日本政府は戦争中に起こったことに対して
責任を負わなければなりません。
家で洗濯した服を干していると、三人の軍人が現れて私の両腕をつかみました。日本語で怒鳴っていたので何を言っているのかはわかりませんでしたが、私は恐怖を覚えました。
無理やり引っ張られてArayat central schoolに連行され、部屋に一人で閉じ込められました。少しして姉のMariaも捕まってきました。部屋に二人の軍人が入ってきたので
あちこち逃げ回りましたが、捕まって殴られました。最初に軍人に強姦されたときはひどく流血し、苦痛でした。次の軍人のときには意識を失いました。
目を覚ますと血で服が濡れていました。妹のValerianaも捕まってきて同じ部屋にいたのですが、私と同じ苦痛を味わったようでした。翌日も軍人がやってきました。
私の体はまだ腫れていましたが、軍人はそんなことはお構いなしでした。昼は掃除をして、夜は一週間に三、四回強姦されました。
結婚するときにこのことを夫に話しました。彼は私のすべてを受け入れてくれました。
時々テレビから日本語が聞こえると悪夢に陥ります。強姦や心理的・身体的損害はお金に換算することはできません。日本政府は戦争中に起こったことに対して責任を負わなければなりません。
* 暗い階段を半分上ったところにあるおばあさんの部屋の片隅には、お祈りのための十字架とイエス像がある。大きな窓から差し込む光を受けて祈りを捧げるおばあさんの姿は美しかったが、胸が締め付けられた。
ロンランオ 任兰娥
ロンランオ 任兰娥
ロンランオ 任兰娥
中国の山西省に生まれる、1944年13歳(推定)に15日間、2ヶ月の間に動員
私は、このことは日本だけの問題ではないと思います。
中国政府も問題なのです。
私が経験したことは決して良いことではありません。
恥ずかしくて話したくもありません。
父と従兄が八路軍に所属していたのですが、売国奴の密告で日本軍が家に上がりこんできて、従兄の頭に火をつけました。母と私は彼らにひざまずき、「虐待しないでくれ」と懇願しました。
軍人は私を部屋に引きずっていって強姦し、その後南沟村に連行しました。
そこには二人の女性がいました。
一人の女性は反抗して刀で刺されて死に、もう一人の女性はそのショックで精神を病みました。一人残された私は、毎日十人を超える軍人に強姦されました。.
家族が売国奴にお金と食料を渡してやっと解放されました。二度目に連行されたときは十人の女性がいました。そのときは八路軍が日本軍の拠点を攻撃する隙を見て、混乱に乗じて逃げました。解放されたあとは、村に日本軍が来る度に屋根裏部屋などに隠れて過ごしました。
私は、このことは日本だけの問題ではないと思います。中国政府も問題なのです。私が経験したことは決して良いことではありません。恥ずかしくて話したくもありません。
前に服とプレゼントを持ってきてもらったことが何度かあったのですが、近所の人たちに理由を聞かれて嘘を話しました。
* 2013年に一度「死んだ」ことがあり、死装束を着た一時間後に目を開けたという。しばらくの間言葉を忘れて何も話すことができなかったそうだ。一度死んだのでもう死ぬことはないと思っている。
朴次順 PARK Cha-soon
朴次順 PARK Cha-soon
朴次順
PARK Cha-soon
朝鮮全羅北道に生まれる、1942年19歳で3年間動員さ、中国の湖北省残された
軍人と女性の数に比べて
部屋数が少なかったので、
部屋の真ん中を布で区切り、
両側で日本軍の相手をしました。
普段は高級軍人の、
家庭が貧しく、全州近郊の母方の祖父母のもとで育ちました。お酒を量り売りする店で低賃金で働いていましたが、店の主人に借金ができて京城の売春宿に売られ、そこからまた中国の慰安所に売られていきました。南京を経て、武漢の武昌に来ました。
軍人と女性の数に比べて部屋数が少なかったので、部屋の真ん中を布で区切り、両側で日本軍の相手をしました。普段は高級軍人の、日曜日は下級軍人二十人ほどの相手をしました。日本人の管理人が全ての物資を配給し、
外出は管理人と一緒でなければならないほど厳格でした。
戦争が終わり、女性たちは日本の租界の近くに集められました。
逃げようとした一部の女性が日本軍に捕まって殴り殺されたという噂を聞きました。私は怖くなって、現地人の助けで逃げ出しました。故郷に帰りたくても帰る方法がわかりませんでした。両親もおらず、ここでの生活が恥ずかしかったこともあり、そのまま残ることにしました。
孝感で暮らし結婚しましたが、子どもができなかったので、小さな女の子を養子にとって育てました。慰安所でのことが原因かわかりませんが、1970年に子宮摘出手術をしました。
* 養子の娘はおばあさんのことに無関心だ。韓国、日本、中国の二十三人の支援者と六十五人の後援者が力を合わせ、天井もない倉庫に暮らすおばあさんにきちんとした部屋を作ってあげた。「冬を温かく過ごすことができる」といってとても有り難がるおばあさんの姿に嬉しい気持ちになった。
フランシスカー Fransisca Marcedu
フランシスカー Fransisca Marcedu
フランシスカー
Fransisca Marcedu
東ティモールのスアイ、子供に生まれる、1942年13歳(推定)の3年間動員
彼らは私を「トミコ」と呼びました。
毎日、お金も薬ももらえませんでした。
私は馬や犬と同じでした。
私の言葉は真実です。
いつだったかは忘れてしまいましたが、日本の軍人が現れて「娘を差し出せ」と両親に言いました。私は「行きたくない」と言いましたが、彼らに無理やり連行されました。
朝から晩までかわるがわる軍人がやってきました。一人終わっても、すぐに次の人が入ってきました。軍人が「行為をしなければ両親を殺す」と言うのでどうしようもありませんでした。
彼らは私を「トミコ」と呼びました。
毎日、お金も薬ももらえませんでした。私は馬や犬と同じでした。私の言葉は真実です。ご飯もお米ではなくトウモロコシを食べていました。他にもDafumako、Douという女性がいました。
連行される前は生理がありませんでしたが、一年経って生理が始まりました。そこには三年ほどいました。日本軍が去り、私も帰ってくることができました。
当時のことを考えるといつも頭が痛くなります。腕と脚の入れ墨は日本軍が入れました。一緒にいたときに軍人から「まず入れ墨を入れよう」と言われました。何と書いたかは覚えていません。(文字はぼやけていて、模様だけが見える)
* 2014年には話をすることができたが、今はもう私のことを覚えていない。会話もほとんど不可能で、誰かの支えがないと部屋からも出られない状態だ。おばあさんはいつも巨大な革のようなカバンを宝物のように持ち歩いている。中には必需品のくしやビンロウ(東南アジアでよく食される実。噛むと赤い汁がでる)などが入っている。